先日、あるwebサイトの記事を読んでいて、思わず苦笑いしてしまいました。街でばったり昔のお客様に会った。顔も、どこで会ったかも、ご家族の話で盛り上がったことも覚えている。それなのに、肝心の名前だけが出てこない、という話です。
実は私にも身に覚えがあります。金沢では駅前やショッピングモールなどで知り合いに出会うことがあります。「北島さん!」と声をかけていただき、どこで会ってどんな話をしたかは覚えていているのに、名前だけがすっと出てこない。「どうも、ご無沙汰しております」と笑顔で切り抜けながら、内心は冷や汗です。
「ああ、歳のせいかな」と落ち込みそうになりますが、どうやらそうとも限らないようです。
名前はもともと思い出しにくい
心理学に「ベーカー・ベーカー・パラドックス」と呼ばれる現象があります。同じ顔写真を見せて、ある人には「この人はパン屋(ベーカー)さんです」と職業で紹介し、別の人には「この人はベーカーさんです」と名前で紹介する。まったく同じ言葉なのに、あとで思い出しやすいのは職業のほうだった、という実験です。
なぜでしょうか。「パン屋さん」と聞くと、白い帽子、焼きたての香り、早朝の仕込みといったイメージが自然に広がります。記憶の引っかかりがたくさんあるのです。一方、名前としての「ベーカー」は、その人自身と何の結びつきもない、ただの文字列です。引っかかりがないので、するりと抜け落ちてしまいます。
つまり、名前が出てこないのは、名前がもともと思い出しにくい情報だから。若い人にもごく普通に起こることだそうです。年齢とともに増えるのは確かなようですが、「名前が出てこない=脳が衰えた」と決めつける必要はなさそうです。
対策もシンプルです。お名前を伺ったときに由来やご出身を尋ねてみる、同じ名前の知人を思い浮かべる。名前に何かエピソードを結びつけると、ぐっと覚えやすくなるといいます。
お金にも「名前」と「意味」がある
お金の専門家である私がなぜこんな話を書くのかというと、実はお金にもよく似たところがあると感じたからです。
ご相談の場で「いま入っている保険や投資信託の名前、覚えていらっしゃいますか」と伺うと、多くの方が「ええと、何でしたっけ……」と首をかしげます。恥ずかしいことではありません。商品名は、ベーカーさんの名前と同じ、ただの文字列だからです。
ところが、「これは上の子の大学の費用」「これは夫婦で旅行に行くための老後のお金」と、目的や家族の顔が結びついたお金は、不思議と忘れません。相場が大きく下がって不安になったときも、「何のためのお金か」を覚えている方は、あわてて手放してしまうことが少ないように感じます。
大切なのは名前ではなく、意味の方です。
良い人生を支える、もう一つの蓄え
これは人づきあいでも同じではないでしょうか。名前は出てこなくても、その人と何を話し、どんな時間を過ごしたかは、ちゃんと残っています。記憶としては、むしろそちらが本質なのかもしれません。
考えてみれば、長くお付き合いしているお客様との面談でも、私の記憶に残っているのは運用成績の数字より、「上のお子さんが県外の大学に決まった」「家族で海外旅行に行ってきた」といったご家族の出来事のほうです。お金の相談は、突きつめれば人生の相談なのだと思います。
ハーバード大学が80年以上にわたって続けている研究では、人生の幸福や健康に最も深く関わっていたのは、財産や肩書きではなく、身近な人との良い関係だったと報告されています。
私は仕事柄、老後資金や教育費の計算をたくさんします。けれども、数字が整っただけで「良い人生」になるわけではありません。健康であること。気にかけ合える家族や友人がいること。お金は、それらを守り、楽しむための道具です。4人の子どもを育てながら、そのことを年々強く感じるようになりました。
ですので、資産の点検と同じように、ときどき人とのつながりも点検してみてはいかがでしょうか。しばらく会っていない友人に連絡してみる。離れて暮らす親に電話をかける。夫婦でお金の話ではなく「これからどう暮らしたいか」を話してみる。どれも1円もかかりませんが、将来の自分にとっては大きな蓄えになるはずです。
おわりに
次に街でお名前が出てこなかったとしても落ち込まなくて大丈夫です。その方との思い出を覚えているなら関係はちゃんと続いています。
ちなみに私の場合、出てこなかったお名前は、たいてい別れて数分後、何の前触れもなくふっと降りてきます。脳というのは、なかなか意地悪にできているものですね。
